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体育会系?コピーライターの入社エピソードが多すぎて面倒な話

おはようございます。池田リョウです。

2025年までに「大阪で一番オモシロイ会社」を目指すトゥモローゲート株式会社の役員です。

社内の二大部署のひとつ「意匠制作部」のゼネラルマネージャー(以下GM)をしています。




今日の(意匠制作部)インタビューブログは”新人”ではありません。

なんと、このブログの編集長でもある巻木周平という、すでにトゥモローゲート入社3年目のメンバー。

なぜ今さら?というご質問もありますが、実はトゥモローゲートのメンバーは元体育会系が多いのです。

意匠制作部でも約半数が、学生時代に部活やなにかにめっぽう打ち込んでいた経験があります。

そんな、体育会系=意匠制作部の関係や、仕事をするにあたっての考え方が、今の仕事にどう繋がっているかを紐解きながら、ご自身のキャリアと照らし合わせてくれると、このブログの執筆甲斐もあったと感じます。



さてさて今回の巻木ですが、あまりにもエピソードが多すぎて1万字を超えました。

取材時間は約4時間。ビールを飲みながらの取材を行いました。

もう少しコンパクトにまとめる努力を心がけますが、そもそもエピソードが多すぎるのが悪いですよね?

【意匠制作部 コピーライター兼クリエイティブディレクター】巻木 周平

プロフィール

巻木周平(マキギシュウヘイ)

通称:マッキー。2020年11月1日入社。年齢はついに30歳に差し掛かる。
服は基本ユニクロで年中短パンみたいなイメージだが、意外と清潔感を気にしている短髪でヒゲの青年。
脳が回っている(考えている)ときは、指先がなにかをつまむ動きを繰り返す。



「基本的に先生の言うこととか聞いてなかったですね。」
「運動会でみんなでダンスしろよみたいな時もあったけど、まぁしないですよね。」
「ただ、リレーとかは出ると結構余裕で勝てるんですよね」


今回の主人公である、トゥモローゲート コピーライター巻木はこう語った。


なんの話?

実はこれ、幼稚園の話。

見た目はかわいい子供のクセに、どこか捻くれた幼少期だった。

こんな感じで、巻木の口からはいちいち、面倒なくらいにキャッチーな話が繰り広げられる。



巻木少年は、兵庫県尼崎市で生まれ育った。

大阪府なのか兵庫県なのか、関西人でもあやふやな尼崎市。
ダウンタウン、小林可夢偉の出身地としても有名な場所だ。
(尼崎市は兵庫県です)

野球が盛んな地域で、近くには甲子園が位置し、少年野球チームをはじめ多くの野球民が存在する。


巻木少年は3人兄弟の末っ子。
7歳年上の姉、そして4歳年上の兄がいる。

元高校球児だった父の影響もあり、
兄に続き、当時5歳の巻木少年も軟式野球を習うことに。

一般的に野球を始めるのは小学校ごろが多い中、
幼稚園の年長5歳で始めるのは比較的早い方だ。

だからこそ?それなのに?
幼少期に芽生えた巻木少年の野球熱は、消えることなく燃え続けていた。



小学校に入学。
背の順で言えば後ろから五番目くらい。

当時は比較的大きい方だった。

運動神経も良く、走りなら小学校では負けた記憶すらないし、頭も悪くない。

運動や勉強においての、才能やセンスは割とあった方だという。



野球では、ポジションは3番ピッチャー(かショート)。
小学校では県大会で優勝、尼崎選抜で全国の猛者と戦った経験もある。
チームにも恵まれ、順風満帆。



しかし、昔から、人と同じことをすること、
同じことばかり続けることは大嫌い。

そんな性格からか、妙になんでもこなせてしまうからか、
冒頭のように、幼少期から親に困惑を与えてきた少年だった。


親は教育熱心な方。

だからこそ、縛られるのが息苦しい。
だからこそ、反発したかったのかもしれない。

中学に入ってからは素行の悪さも目立ちはじめる。



小学校と比べ、巻木少年の野球環境はガラッと変わっていた。

中学時代のチームはあまり強い方ではなかった。

軟式野球から硬式野球に変わり、2年・3年生の先輩と比べると、体格差そして力の差は大きくなっていた。



野球に対する情熱だってそうだ。
人一倍の熱量を持っていたつもりだが、次第に冷めつつあった。

成績が振るわないからなのか。他に楽しいことがあるからなのか。

この歳でのがんばり方がよく分からない。
中学時代なんてそんなものだ。

いつからか”なんとなく”野球に向き合うようになっていた。




そうなると、野球以外のことにも、かんたんに興味を持ち始めるのが”思春期”というもの。

楽しいことなんて巷にいくらでも溢れている。

親の教育方針もあり、中2までは携帯電話も持たせられなかった。

友だちとの環境差も感じるから、反発だっていっそう増える。

いわゆる”わるいこと”にも手を出し、巻木少年は”しょうもないこと”ばかりをはじめる男子に見事成り下がった。

「勉強も運動もできるタイプでしたが、人類としては終わってましたね。」と語る。



野球の時間が減った巻木少年は、あのスポーツの衝動を”わるいあそび”に向けた。

中学生ならではの、まるでゲームのような、はた迷惑な毎日を過ごしていた。





大人の話なんて聞こうともしない。ただその場が楽しければいい。

グレていたわけではないが、実はこういう男子ほど面倒だったりもする。




ゲームのような毎日は気がつけば2年が経ち、中学3年生になると体も成長し大人に近づく。

なんとなく続けていた野球への出場機会、そして体の成長や技術の向上が見え始めたことで

野球をやめたわけではない巻木のモチベーションは、ふんわりと舞い戻っていた。



試合再開だ。
3番、ショート、巻木。
最高学年になると活躍できるようになった。
桜の散る中3の春だった。




価値観の最強アップデート

中学卒業前。

約3年間、なんとなく野球に向きあい、遊びに呆け、活躍自体も遅かった巻木。

更なる飛躍を望んでいても、甲子園を望んでいても、他校からオファー(スカウト)の声などはない。

はずだった。



しかし、唯一。

親にそのアプローチをしてくれた監督がいた。

それが、”感情”と”論理”を使い分ける鬼監督。

元明徳義塾コーチ、そして当時超弱小校だった兵庫県の明石商業高校を、甲子園に春3度、夏に2度も導き、兵庫県のみならず全国屈指の強豪に育て上げた鬼監督。

恩師、狭間善徳 氏だ。

生きるってこういうことなんだ




狭間監督のもと。
何かが大きく変わるかもしれない。

巻木はそう考えた。



「高校は鬼の転機でした」

イキイキともビクビクとも言い難い表情で、
流暢に語るいまの巻木を形成したのは、きっとこの監督なのだろう。



中学での野球生活は卒業し、明石商業高校へ。
運命・衝撃の出会いとも言える監督のもとで再び野球と向き合う。




狭間監督には一発目のMTGでやられたという。殺られたというべきか。

「これまで大人の話を真剣に聞いたことなかったんです。ただ、その瞬間はもうなにも覚えてないんですけど、自分でもどうしたんやろ俺?っていうぐらい、なんかもう初めての気持ちにしてくれたのがこの監督の熱量。」


これまでに見たことない。
断言できるほど監督の熱量はものすごかった。
生半可で向き合っていたら本気で殺されると思った。

ヤバいくらい厳しい人だった。
ただ、親以外で見たことないほどに自分に向き合ってくれる大人だった。



ベンチに入っていない人に、偉そうな態度をすれば即刻キレられる。
応援席の人に雑な扱いをすると、閻魔の如くキレられた。
それは24時間、365日変わらない。今になっても。


全人類史上、圧倒的に怖すぎる。


しかし、理不尽な言動は一切ない。人を殴ることだってない。
そして、周囲に敬意をもつ。

目上の人への敬意や態度は重んじるが、実力の中ではフラットであること。

人間的に優れた人だった。そう思えた。


「そうやって、人生まるごと変えられましたね。」
納得感、そして深みのあるトーンで、巻木は苦そうにそうつぶやく。




入学時、野球部の同期は50人以上いた。
最終的にスタメンとして出場できるのは、全学年130人の部員の中で限られた9人。



高校では恋愛なんかしていない。
遊ぶ時間もなければ、興味も出なかった。
(いや、恋愛への興味は死ぬほどあったし、ちょっとはしていた気がする)

「休みがないんですよ。基本的に大晦日と元旦しか休みがない。朝6時台の尼崎発の電車に乗って、明石の先の駅で乗り換えて、降りた小さな駅で、またチャリンコを買って乗ってて。今思うとすごいですが、片道2時間弱を毎日通ってました笑」

中学の進路相談では、先生に何度も「そもそも、通うのなんて無理」と言われ続けていた。

そんな中で巻木は1年秋からスタメンになり、最終学年ではキャプテンとして130人を率いた。


結果的に、甲子園までは行けなかった。


春の大会では、創部史上初の兵庫県大会制覇を成し遂げたが、
甲子園に直結する夏の大会では準々決勝で負けた。

完全に燃え尽きた。





チームとして最高の結果までは残せなかった一方、個人としてはそれなりに評価されていた。


高校2年の冬ぐらいの進路相談。

狭間監督から「東京に行け。」と勧められた。

当時の巻木少年からすれば東京なんて未知の世界。

イメージすら湧かへん。

未知への不安から関西の大学に行きたいと意志を伝えたが、
なぜか監督には猛烈に反対されたことを覚えている。
何がなんでも東京にいけと。



真意を痛感するのはもう少し先の話だが、
熱意に押された巻木の進路先として決定したのは駒澤大学(東京)。

父親に話すと腰を抜かすほどに驚かれた。
父親世代を中心に有名なプロ野球選手を何人も輩出している超名門だった。

東京という場所だけでもイメージが湧かないのに、そんな学校に。

野球以外のことを知らない巻木の頭の中で、「東京」はスポンジの如く膨れ上がっていた。

(狭間監督との交流は今でも濃く続いている。)




勝つってこういうことなんだ

全国大会優勝数No.1(当時)、上下関係の厳しさNo.1(多分)。
各地から野球でのし上がってきた”すごいヤツら”が集まってきている。

僕らがどこかで見た漫画のような環境。
巻木はそんな夢みたいな場所、駒澤大学にいた。

-プロ入りは実力的に厳しい-
高校時代、この大学に決めるための体験練習がはじまって、わずか30分。体感5分。
巻木は笑ってしまうくらいに悟っていた。

周囲と比べると、一緒にやっているのが恥ずかしくなるくらい、体のポテンシャルが圧倒的に違う。
自分よりも体がデカいのに、パワーがあるのに、自分よりも足が早い。
もう意味がわからない。

自分の立ち位置を一瞬で痛感した。
おそらく、狭間監督もわかっていたのではないか。


巻木は考えていた。


レベルの違いを感じたのは事実。
しかし、上がすごいと思い込みすぎてはいけない。先入観を持ってはいけない。
上を見ることで自分を過小評価してはいけない。

そんな考えだと、本当に自分が小さくなってしまうと感覚的にわかっていた。

たとえプロになれないとしても、試合に出れないわけではない。
どこを目指すかが重要だ。頭を使えばポジションは取れる。

これは今でも巻木が大事にしている考え方だという。



巻木はこれまでの経験から、話す力・現状課題をあぶり出す力・練習や試合の空気を作る力を持っていた。
そして、いつからかチームの責任者というポジションで、戦略的に指示を出していく立場となった。

大学生にもなると、たとえ後輩の新入生であっても、すでに負けを感じることもあった。
明らかに自分よりも上手いヤツに対しても、グラウンドで指示を飛ばす立場だった。

自分だってバッターボックスに立ちたい。
だからこそ、とにかく量を練習した。限界までやった自信がある。

しかし、試合には出れない。
スコアボードに名前は載らない。

サブキャラなのにゲームの主人公たちに指示する立場。
ゲームに出られる体はあるのに、後ろから指示だけを飛ばす立場。



「キャプテンになった時が一番きつかった」と、巻木は甘酸っぱくつぶやく。

これは幼少期からずっと野球に打ち込んできたからこその、僕らには到底わからない気持ちなのかもしれない。




そして駒澤大学として、忘れてはいけないことのもう一つ。

上下関係の厳しさは全国No. 1(多分)

野球を通して、大学で学んだ大事なこと。



「本当これって、究極の組織づくりだと思いますね。一種の洗脳状態です。」

上下関係の中、世間とそして社会とブツっと遮断された大学での寮生活。



与えられたのは6畳一間の2人部屋。
後輩が先輩の誰々をお世話するという生活。

後輩のスペースとして分け与えられるスペースは0畳。
ん?0畳?

「後輩のスペースは押入れの中なんです。」
(あれだ、、ドラえもんだ。)



例えば、、
部屋に先輩がいる時はスマホを触ってはいけない(触れる空気ではない)
テレビのチャンネル権なんてあるわけないし、先輩1人の所有権。
そもそも先輩がいたら押し入れの中で体育座りがデフォルト。
先輩が寝たら寝る。僕らが先に寝るのはダメ。
朝起きるにしてもアラームは鳴らせない。先輩が起きちゃうから。
シャカシャカするジャージも朝うるさいからやめろと。

飲み会でのしきたりなんかも死ぬほど厳しく仕込まれた。
上座・下座だとか、先輩来るまで飯食えないとか、食えって言われたら全部食うとか。
先輩を楽しませるためにはなんでもやった。
お酒をつぐときはラベルを上に向ける。
お酒をついでもらう時には両手を合わせる。
飯に行った夜は、帰ってから「ありがとうございます!」。
翌朝また部屋へ行ってご挨拶。
先輩が寝ていたら、起きるタイミングを1時間おきで部屋に行って確認。
休み前の日と休みの日以外は外に出たらダメ。先輩のパシリ以外。
一般の人(野球部以外の)と喋ってはいけない。
その日使用したボールは消しゴムで毎日2、3時間かけて磨く。
トイレの便器を手で磨いたこともあった。(10年前の話です)



なんでここまで?
わからない。もうそれがしきたりだ。
理由なんて求めてはいけない。

列挙したが、こんなのほんと一部でしかない。


だから、社会で通用する人間にとか、社会でも役に立つ?ってことすら当時は解らなかったが
生き抜くためにはそうするしかない。世界はここだけなんだ。


話し合っても無理で、理不尽で理由もないルールがまかり通る。
これはある意味、そういう組織の形でもあるんだ、と。

「こういうのが続くと不思議と1ヶ月ぐらいで、もう慣れてくるっていうかこれが普通ってなります笑。ちゃんと兵隊に仕上がっていくんでその時は。」



原則は理不尽で、意味あるこれ?みたいな。
郷に入れば郷に従え。
理由なんて持ってくんな馬鹿野郎。



とだけ聞くと本当に意味のない期間を過ごしたように見えるかもしれない。
しかし巻木はまっすぐこちらを見て熱弁した。
長かった。

「たしかに理不尽なこともあったし、今では考えられないこともたくさんあった。でも無駄だったか?と言われるとそうではないです。駒澤大学という世界だけの、絶対に破ってはいけない掟をみんなが信じていたからこそ、いざ勝負となったときの一体感は凄かったし、練習への熱量も凄かった。勝つためにケンカもいっぱいした。相手を研究するMTGは日をまたぐこともあった。その結果、3年の時には日本一になれました。その時には少しずつ試合に出られるようになっていたこともあり、胴上げからのビールかけはとびきり嬉しかったです。忘れられません。」

巻木はまだ喋る。

「不思議なことに、卒業後は理不尽な上下関係はほとんどリセットされるんです。もちろん礼儀礼節は残りますし、ゆるい関係ではないですが、それぞれが仕事を依頼しあったり、全国各地で学年の壁を越えて飲み会があったり、学生時代が被っていない異世代間でも「駒大野球部です」と言うだけで距離が縮まって人間関係が一瞬で構築される。国内ならどこに旅行に行っても誰かがいますし、どの業界にも1人や2人は顔見知りがいる。合わなくて途中で辞めるメンバーもたくさんいましたし、周りの人や世間から誤解されることもありますが、少なくとも僕にとって駒澤の野球部は最高で最強の組織です」



高校時代に生きるとは何か?を学んだ。
大学では組織とは何か?勝つとは何か?を学んだ。
そうして巻木の人生は社会人に突入していく。


フリック巻木。

大学4年の就活当時。大事な試合はまだ残っていた。
その試合を集中してやりたいがために、早く自分の就職先を決めておきたかった。


就職は野球に関連することが得策だと思っていた。
すでに独立している兄の影響もあって、昔からビジネスには興味があったのだ。


そんな中、大学野球部の先輩がたまたまスポニチ営業部で働いていた。
スポーツニッポンにはもちろん馴染みがあったし、就職先としても興味はある。


しかし、興味を持っていたのは営業部ではなく、編集記者の仕事。
(電通も受けていたが、履歴書出し忘れた。)


その先輩からは、
「営業の仕事はキツいけど給与はいい。ただ記者として内定をもらうためには、学歴的にも地頭的にも難しいかもな…」と言われていた。いけるとすれば多分、営業部だよと。

試合に集中するために「とりあえず就職しないと…」と選考を進めていると、なんと内定をもらった。
スポニチ大阪報道部に。そして編集部の記者として。

内定した新入社員たちと顔合わせ。
聞いていた通り、どこを見渡しても、誰に話しかけても学歴が高い学生ばかり。

どう見ても自分が一番低学歴。これは大学の時に見た光景と同じだ。
体格やチカラじゃなく、今度は頭か。学歴か。なんだよ俺。


巻木はあまりの差にまた笑ってしまいそうになる。


しかし研修期間、冷静に同期の記事と自分の記事を眺めていると、思った。
-勉強では負ける。でも、話を聞いて面白く伝えるという点では勝てるかもしれない-

言葉には出さなかったが、心の中ではこの仕事の球筋が見えた。

野球経歴があるからこそ、スポーツ記者にフィットするのかもしれない。

人前(チーム)で話すことは慣れていたので、「伝える(伝わる)」筋力はついていたのかもしれない。

野球の奥深さは、たかが学歴なんかじゃ到底表現しきれない。

これは負けない。負けるわけがない。

大学での野球を、これまでの野球人生を槍に、巻木のスポニチでの快進撃が始まった。



「社会に必要な対人スキルは、これまでの積み上げでいつの間にか養われてたんですね」
巻木はうれしそうに語った。

巻木の仕事は、記者として阪神タイガースの選手にインタビュー。
そしてその内容をスポーツ新聞の記事としておこす仕事。

しかし、野球選手にインタビューといって、すぐにできるほどこの仕事は甘くなかった。


選手たちのマスコミに対しての警戒心は強い。
人気選手ほど、その場のノリで軽く話したことが変な形で切り取られ、勝手に炎上してしまう。

だからこそ、顔を知っていても話してくれないことが全然珍しいことではないという。


試合後に、普通に追いかけてインタビューしてもほとんど話してくれない。
試合に負けた日なんて余裕で無視。それが当たり前だという。
機嫌が悪ければ〇〇や〇〇されたこともあった。
※たぶん放送禁止



だからこそ、それをどう突破するかが勝負。



もうお前やったらしゃべるわ、、という関係をどう築くか。
とにかくまずはガンガン食い込め!みたいなことは先輩からずっと教わっていた。



ターニングポイントは入社半年くらいで行った、阪神の遠征先の宮崎。

「阪神に大学の先輩がいたのでなんとか潜入して、他の選手にも名前を覚えてもらうために名刺を配りたいと思ったんです」

自分の名刺300枚を勝手に手配し、練習終わりの選手たちが飲みにいく宮崎の繁華街に向かった。
先輩に目当ての選手を連れてきてもらい、スナックで史上最高の接待がしたかった。

巻木は100店舗前後のスナックがひしめく雑居ビルの全店に、
「絶対阪神の選手連れてくるんで、可愛い子準備しておいてくれませんか!」
と飛び込みで営業し続けた。

「顔は必死でしたけど相手(スナック)からすると、ほんまかどうかもわからんですよね笑」


その中で、一軒だけ食いついてくれたママがいた。


巻木が先輩に「行けます!」「気合いでねじ込みました!」 と連絡すると、
先輩は巻木がずっと取材したいと願っていた選手をついにそこに連れてきてくれた。

そしてそこでの接待を通し、選手にオモシロイと覚えてもらえたという。



駒澤大学時代のあの過酷な毎日。

一発ギャグで3回大爆笑を取るまで2年生になれれないという儀式もあった(どういうこと?)
面白くないと〇〇されるから、死ぬほど仕込まれたし、しこたま考えた。
※たぶん放送禁止2



今の巻木からすると、カラオケまでいけば、一発芸のステージまでいけば、もうそこは自分のホームグラウンドだった。


宮崎の夜の翌日からは選手の巻木への対応が変わる。
グラウンドでは選手の方から話しかけてくれたりと日常から変化が現れる。

そして選手と選手のつながりで「あいつ(巻木とかいう記者)おもろい」とクチコミで繋がっていく。

「最初の切り口は宴会芸でおもろいやつって感じを出しましたけど、結構ガチの野球トークも近いレベル感でできたんで。それで1年目の冬ぐらいには、もう一気に同世代選手も軒並み人間関係つくった感じですね。そこからはご飯食べながら取材ができるくらいでした。」

※他にも汚れキャラとして選手に呼ばれるようになったり。前日は飲み屋でベロベロに羽目を外しているが、翌日では数十人のマスコミがいる囲み取材で、そんな汚れの僕が真面目な顔して取材してるのも面白かったみたいです



スポニチでも安定して収入を得られるようになった巻木。
しかし、それはそれで不安もあった。

「もうある程度稼げるんですよ。ただ、記者としての業界の将来性を調べていると不安もありました」

もっと心から面白いと思える仕事を、もっと将来性のある仕事を、本格的に調べ出すのが入社3年目ぐらいから。
昔から好きだったホリエモンの発信をしっかり見るようになったのもそのころ。

選手との食事で「俺、インフルエンサーになるから」と、冗談で美味かった飯などをSNSにあげていると、
実際に店舗から数万円でPRしてくれませんか?という声がかかるようになった。


あ、こういう形でお金って稼げるんだ。


仕事を通じて、これまでと違った”ビジネス”を感じとれるようになってきた。

巻木は、選手の練習風景やオフショットなど、試合前から見れたり写真を撮れたりする環境で、
食事のSNSのようにこれをアップしていけばいいんじゃない?と思い、新しくSNSアカウントを育てはじめた。

「フリック巻木」のアカウントは、3ヶ月で1.5万人のフォロワーへと成長する。
スポーツ記者でSNSを使い、実名顔出しでアカウント運用をはじめたのは、何を隠そう巻木(フリック巻木)が初だった。

会社には許可をとらず勝手に始めた。


こうして所得も少しづつ増えた巻木は、これを更にまとまったお金に変えるには?と考えていた。
じゃあこれを年間1000万の収入にするには、どうするのかと。

「そうやってビジネスの思考を学びたいって思っちゃうのは、兄の影響が昔から強かったのかもしれないですね」

巻木が次の人生を本格的に考える瞬間だった。



なぜトゥモローゲートに?

ビジネスを学びたい。

しかし、ゼロイチでお金を生み出す経験はやはり乏しい。
やり方もわからなければ、知ってる人間も周りにいない。

それなら、そういった場所・人に接していかないと難しい。
巻木は新しい道への面談を受けにいく決意をした。


その時に巻木が選考に進んだのが、元ZOZOの社長で、かの有名な前澤友作氏の新会社。
ZOZOの旧社名と同じ「株式会社スタートトゥデイ」を別会社として新たに設立していた。

巻木はその第一期生としての求人へ応募した。

「スポニチ当時の試合中、募集中の記事を見て、スマホでその場でエントリーまで完了させました。以前から実績あるすごい人というのは理解できてたんで」

巻木は昔の野球時代のようにワクワクしていた。

そして結論、最終選考で落ちる結果に。

エピソードとしては、最終選考だが短パンで行った、現場では自分以外全員美女が集まっていた、前澤社長本人の前で英語が喋れないくせに英語PRして爆笑させた、など多岐にわたるが、そろそろ文字数も多く、面倒なので割愛する。


「ただ、多分いきなりそこまで行けたってことは、新聞記者以外でも活躍できる可能性は十分感じられたなと。」


そして、その前澤さんの情報収集の一環でフォローをしてたのが、元ZOZOの執行役員でもある田端信太郎氏だった。

当時、田端氏はトゥモローゲートのCTO(Chief Twitter Officer)に就任したころ。

「へぇーって感じで見てたら、このトゥモローゲートって会社、大阪なんや!っていうのが、TGとの出会いです」

そしてYOUTUBEで、田端氏と同レベルで話している西崎に興味を持ちはじめる。

トゥモローゲートとの馴れ初めはこんな感じだ。



当時、トゥモローゲートはライター募集をしていた。

しかし、巻木はライターの仕事がどんな業務内容なのか、正直わかっていなかったという。

「この勢いでGOしないと、もういい仕事に巡り会えないという直感でしたね。」
巻木は当時をそう振り返る。


事業内容も見ずにエントリーしたが、なぜかトゥモローゲートでは最初の面談から手応えを感じていた。
スキル云々というよりも、オモシロイやつとは思ってもらえているなという感覚。

「世界一変わった会社で、世界一変わった社員と、世界一変わった仕事を創る。」
トゥモローゲートのビジョンにぴったりの印象は与えられた、という実感だったのだろうか。



オンライン面談 → 課題選考を通過し、インターン選考へ。

インターン選考の課題は
・代表 西崎康平を情熱大陸に出したくなるような、メディアへの手紙を書いてください
・企画書はPPTもしくはPDFにまとめること
・これらをプレゼンしてください



巻木は困惑した。
これまでにPPT(パワーポイント)という言葉すら聞いたことがなかった。

選考の裏では、友人にPDFってなに?誰でも見れるの?とか、プレゼンってどうするの?と聞きまわった。
また、特に必要とされていない”社員に配るためのオリジナルの名刺デザイン”、”想いを綴った手書きの手紙”なども準備し、持ち前の戦略的思考で選考に挑む。

「表面的な選考内容ではいいものを出せると思えなかったので、小手先よりも自分の一番強い部分をPRしたかったんです」

インターン選考は通過。

これまでの学歴・職歴でオモシロイやつ(もちろん芯がある上で)という事実も伝わり、見事西崎との最終選考を乗り越え内定へ至る。



いまの仕事感、そして未来。

2023年10月。
トゥモローゲートに入社して、早や3年が経とうとしている。

基本的な人格は変わらない。
高校や大学の頃から気づいていたが、他人から何か言われると”一旦めっちゃむかつく”。


スポニチ時代だって同じだった。
取材・記事執筆後、上司から急に電話がかかってきたと思えば、
「これってどういうこと?何が言いたいの?」と聞かれ、ていねいに答える。


翌朝見ると文章がまったく違う。
誰が書いた?あれ?オレ?だれ?


入社時は些細な修正でもイライラしたし、心の中で怒りが渦巻くことだってあった。


その一方で、スポーツ新聞は発売までタイトなので、しょうがないともわかっていた。
だからこそ、隠れて写経したりもした。努力は見せたくない。
※写経 = まったく同じ内容をただ無心で自分で書いてみること


自分がいいと思う文章と、周囲で良しとされる文章の差は、入社一年で理解できるようにはなっていた。
実際今見ると恥ずかしい文章もあるものだ。

スポニチでは絶対に読んでくれるファンを相手にしていた。
好きなようにやっても、原則読んでくれる。楽しみに待っていてくれる。


会社は変わり、いまでは文章への向き合い方も変わった。
文章に対しての考え方はトゥモローゲートで150°くらい回転している。

見つけてもらうこと、読み進めてもらえる文章を書くこと。

向き合う姿勢だって、3年も経てば大人になったもんだ。



コピーライターとして、将来どうなりたいか。
と、僕は1年前に巻木に聞いたことがある。

「入社一年目はもっとコピーを書きたい、ライターとして成長したいと思ってました。」
「でも、ある程度自分で書ける・仕事を回せるとなってくるとやはり少しづつ飽きがやってくるんです…」


これまで極端なてっぺんを見続けてきた巻木だからこそ、もっとちがう世界、オモシロイ世界に貪欲なのだろう。

いや、多分それが普通なのだ。こじんまり落ち着いているようじゃ、巻木らしくない。


巻木はいつからか「ちょっとやってみていいですか?」と、
クリエイティブデイレクターを担当するようになった。



そして数ヶ月経てば、プロジェクトの現場を先頭に立って回す「リーダー」という役職につくようになった。

異業種からの入社であり、クリエイティブってなに?PDFってなに?美味しいの?
と言っていた巻木だが、スポーツ・野球人生での身のこなしと仕事との違いなんて、どんな職種であろうが大きくない。
ある意味の体幹ができている。

根本がブレない巻木は、「リーダー」から会社の想いや行動を後輩に伝える「サブマネージャー」へも躍進。
年数を重ねながら、一段づつ着実に登って行くのも巻木の特徴だ。

ただし、巻木は役職を目指して仕事をする気は一切ない。

「成果を出した人間が、成果を評価として見てもらえること。この基本的な仕組みがちゃんとある会社がすごい」
と言う。

「これまでの人生では、媚売ったり、裏で手を引いたりってのがあったからこそなんです。それはそれでめちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ必要なスキルなんですけどね。」

なんか腹立つけど、格好いいことを言うもんだなと。



体育会系なんてない。(あとがき)

池田です。ここまでもうすでに1万字以上です。
あきらめずに読んでくれてありがとうございます。

さすが、体育会系のガッツある人です。



この記事は、体育会系の人たちに、
一見ぜんぜん違う世界に見える(であろう)“トゥモローゲートで働く”の可能性を
感じてくれればいいなと思い、書いた記事です。

僕の感覚では、トゥモローゲートと体育会系は相性はいいと思います。
WEB上やSNS等では派手な見え方をしていますが、日々本当に泥臭い毎日なんです。

だからこそ、巷では”体育会系”と分類されるであろうゴリゴリの人生を送ってきた「巻木周平」にフォーカスし、
少しでも身近に感じてもらい、その巻木が活躍しているトゥモローゲートに興味を持ってもらえたらと。




そして僕は最後に、体育会系を募集(採用)するってどう思う?と、巻木に聞いてみました。

「”体育会系”という言葉が微妙に感じています。例えば、野球部だからといって全員が僕と同じ熱意・熱量なわけではなくて、むしろ同じなのは一部の人だけってことも普通にあるんです。だから”体育会系”と言われる人々は『スポーツをしていた人』ではなく、この熱意を持ってきた人の代名詞だろうなと。」

「なにに繋がっているか分からなくても、とにかく努力できる。無駄かもしれないとどこかで思いながらも、目の前のことを正解と信じて命をかけられる。その大切さを痛感できるのが部活であり、運動をしていた人がより多いんじゃないかなって。その中でも僕は、ありがたいことにトップレベルに近いところで経験できた。大事なのは、目の前の壁への向き合い方。仕事の目標やモチベーション維持も全く同じ。」

「でも、そうやって何かを極めようとしてきたやつって、人間としてもどこか変で外れていて、やっぱオモシロイですよ。」





体育会系なんてない。

以上、ヒーローインタビューでした。




意匠制作部では現在もまだまだ採用に力を入れています。

どうぞよろしくお願いします。

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